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  院長ヒストリー

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はじめに

第二次ベビーブームの真っ只中の昭和47年7月埼玉県上福岡市で生を受けました。
父は柔道整復師として接骨院と柔道場を開業していました。母は父が開業している接骨院を手伝っていました。
そんな両親のもと男3人兄弟の次男として育ちました。

私は様々な人との出会いやつながりによって歯科医師となり歯科医院を開業し、素晴らしい仲間たちに囲まれて日々過ごしています。
私を知ってもらうため私の生い立ちを少しお話しさせていただきたいと思います。

小学校時代

私の入学した上福岡第3小学校は1年のときには8クラスもあり教室が足りずプレハブで作られた教室もあったほどのマンモス校でした。

小学校時代は一言で言えばやんちゃな少年でした今思い出しても恥ずかしいのですが低学年の頃は先生に怒られた記憶しかありません。
小学校1年生の頃は先生にはむかって先生に噛みつかれたり、小学校2年生の頃は廊下に立たされ下校時間になっても許してもらえず真っ暗な中、母親が心配して迎えに来ると言うこともありました。特に母には迷惑をかけたと反省しています。

そんな自分が少し変わるきっかけになったのは小学校3年生の担任の先生でしたその先生は決して暴力をふるったり暴言を言うことはなく、どんなときも諭すように『人のためになるように』『相手の気持ちを考えるように』と常々僕に言ってくれました。卒業までの4年間ずっと担任をしてくれて、今思えば少しずつ周りのことを考えられるようになっていったと思います。
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※小学校時代の恩師との写真

中学高校時代

中学校は地元を離れ私立の中学校に入学しました。
その頃の私は父との関係に悩んでいました。父は柔道の先生でもあり、私が柔道で勝とうが、学校の成績が良かろうが決して褒めてくれる人ではなかったのです。「結果を出せ」というのが口癖でした。厳しかった父親の元を離れたい思いもありましたので家を出て寮生活をするのがとても魅力的でした。
この学校は男子校の全寮制で中学1年から高校3年生までが月曜から金曜日まで同じ寮に住みながら生活をします。
さすがに男だけの寮生活は息が詰まる思いをしましたが、慣れてくるととても楽しく、金曜日に家に帰れるのですが、楽しくて家に帰らず週末も寮に泊まっていました。
全く勉強した記憶は無いのですが、ここで学んだのは仲間や友達を思いやる気持ちです。とても多感な時期でしたから友人とぶつかることも多々ありました。しかし、家族以外の人たちと一緒に生活をするという事はお互いを尊重し、認め、譲り合って生活していかなければなりませんでした。その点では、歯科医院をやっていく上でスタッフたちとの関係性に通じるものがあり、今の私の考えの礎になったものだと思います。
さすがに6年間も同じ釜の飯を食った仲間たちなので卒業して何十年も経っておりますが定期的に食事をしながらお互いの近況を語り合うという交流が続いています。
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高校生になり自分の進路を考えていたときに父親の影響なのか医療系に進もうかとぼんやり考えていました。それが明確になったのは友人の家に遊びに行った時のことです。
その友人の家は歯科医院をやっておりました。そこで友人のお父さんと食事をしたときに「小野沢君は将来何になりたいの?」
と聞かれ「特に決まってないのですが医療のほうに進みたいなと考えています」と答えました。
その時にその友人のお父さんは「歯医者だって良いじゃない」と言いながら歯医者はどんな仕事をするとか何か教えてくれました。
私は子供の頃から歯医者にほとんど行ったことがなく歯医者のイメージは虫歯を削るところと言うイメージしかありませんでしたした。
友人のお父さんが言うには「これからの歯医者さんは虫歯を治療するとこじゃなくなるよ。これからの歯医者は治療ではなく予防する所になるから患者さんに感謝されるようなところになるはずだよ」と教えてくれました。

よく子供の頃に学校の先生に怒られていた自分に母は「感謝されるような人間になってもらいたい」と言っていました。そんなことを思い出し、歯科医師の道を選びました。そのことを父に伝えると「自分が決めた事ならいい、けれど最後まで貫き通せ。」と言い、私が歯科医師になることを応援してくれました。

大学時代

そして歯科医を目指すようになった私は、日本大学松戸歯学部に入学しました。
この松戸歯学部でも中高と同様に柔道部に入部し、授業を出席するもののあまり勉強せず、部活が終わると友人達とお酒を飲み熱く語る日々を過ごしていました。その友人の中には私の歯科医師人生を大きく変えるような出会いもありました。
運の良いことにみんなに助けられ、6年間でストレートに卒業し国家試験も一発合格しました。
国家試験合格の時は父親に電話をし、「今までありがとうございました、これからもしっかりやっていきます」と伝えました。すると父は「結果残したな、おめでとう」と一言言いました。もしかしたらこれが初めて父に褒められた時かもしれません。どのような歯科医師になりたいかという考えを持ってなかった私でしたが、まず武器を作ろうと思い、口腔外科への道を選びました。そして、「近いから」と言うスラムダンクの流川のような理由で日本大学歯学部口腔外科第二講座に入局させていただきました。

日本大学歯学部口腔外科時代

ここではとにかく、歯を抜けるようになりたいとひたすらひたすら親知らずの抜歯を行いました。一般開業医では行わないような抜歯もここで学ぶことができました。また他大学から来た自分に先輩や同級生はとてもよくしてくれました。

口腔外科に入局するときに3年間は口腔外科を学ぼうと決めていました。入局してしばらくすると、今後どのような歯科医師になりたいのかを自問自答するようになりました。やはりそこで思い浮かんだのは父の事でした。父は脱サラして柔道整復師の資格を取り、整骨院と柔道場を開業しました。常に厳しかった父のことを僕は避けるようになっていましたが、歯科医師として働き始めた時に、父が接骨院を開業して多くの患者さんにお礼を言われている姿を思い浮かべ、やはり父のように自分の医院を開業し、父を追い抜くことはできないけども少しでも近づきたいと思うようになりました。
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そして口腔外科の3年目の秋の事でした。
大学時代よくお酒を飲み、熱く語っていた友人の1人尾花君から1本の電話をいただきました。「今度、開業する医院を任されることになったからもしよかったら小野沢も一緒にやって力貸してくれないか」尾花君はとても素晴らしい人間でしたのでそれも悪くないなと思いました。しかし3年間ほぼ口腔外科しかやっていないので一般歯科診療にはあまり自信がありませんでした。そのことを尾花くんに伝えると、それでは新しくやる医院の理事長に会いに行こうと言い、医療法人佳愛会理事長の今坂幸一先生のところに連れて行ってくれました。そこで私は今坂先生に一般歯科診療はあまり自信がないのですがと相談すると、「とにかく勉強して、とにかく一生懸命、とにかく多くの患者さんに接することが大事のことだと思う。小野沢君は開業したいんでしょ。だったら力を貸すから4年間一生懸命やってくれたら必ず開業しても大丈夫な力がつくからぜひ一緒にやろうと誘ってくれました。」その言葉も非常に嬉しかったですし、その時今坂先生は僕にステーキを食べさせてくれました。そのステーキに手懐けられた僕は当初の予定通り3年間で口腔外科を退職し、今坂先生の下にお世話になることに決めました。

勤務医時代

そして口腔外科を退局した後、私は東京都瑞穂町にあるけいあい歯科クリニックに入社しました。

ショッピングセンター内の新規開業でしたので患者さんが多く来院されました。そんな中不慣れの一般診療の診療を、10時半から21時までとにかく一生懸命やりました。
少しずつ一般診療にも慣れてくると、自分の悪い癖が出始めました。それはすぐに調子に乗ってしまうと言うことです。いわゆる「勘違いドクター」になっていたのです。診療に関しては一生懸命やりますが、スタッフに気遣いをしなかったり、朝はギリギリに出勤をし、医院の取り組みには無関心で自分には関係ないと思っていたり、診療中スタッフにイライラしたり何かミスがあったときスタッフを怒ってしまったり、まぁ今考えると恥ずかしい限りです。
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しかし院長である尾花君は仕事も熱心でスタッフや患者さんへの気遣いも素晴らしく、みんなから好かれる存在でした。そんな私の態度に見かねて尾花君は「もうちょっとみんなで楽しくやれるように小野沢も少し考え方を変えてみてくれないか」と私に言いました。そして尾花くんの口癖は「せっかく任せてもらっている歯科医院だから小野沢と一緒に成功させよう」でした。私は自分のために働いているようで、尾花君は人のために働いているようでした。やはり彼を見ていると自分の変わらなければいけないなと実感し、少しずつスタッフに対して、自分の仕事に対する取り組み、仕事への準備などを意識しながら日々仕事するようになりました。自分が変わると周りもやはり変わってきます。スタッフはもとから明るいメンバーが揃っていましたのでどんどんどんどん良い雰囲気になっていき仕事もすごく楽しくなりました。

そして3年を過ぎた頃、理事長の今坂幸一先生に呼ばれ、「あと1年位で開業できるように協力するから、しっかり準備をするように」と伝えられました。その時に今坂先生に希望を伝えました。ショッピングセンター内でやりたいと。ショッピングセンターの中での開業は実績がある大きい医療法人が権利を取ることが多く、私のように個人で初めて開業する歯科医師がなかなか権利を取る事は難しいのです。しかし今坂先生は「一生懸やってくれたから、小野沢のやりたいように周りの歯科の業者の人たちに頼んでショッピングセンターの中で開業するようにしよう」と言ってくれました。そしてその約半年後、今坂先生や業者の方々の力沿えのおかげで、私の地元である三芳町に新しくできたウニクス三芳(現アクロスプラザ三芳)の中で開業できることに決まりました。すべては周りの人たちの協力があって素晴らしい場所で開業することができるようになったのです。

ユナイトみよし歯科

2006年3月ウニクス三芳(現アクロスプラザ三芳)にてウニクスみよし歯科を開業いたしました。三芳町は私の地元であり、希望であった地元の人たちに力になりたいという夢が叶い、目標達成してとても満足していました。父も母もとても喜んでくれて、少し親孝行できたかなと考えました。

またけいあい歯科クリニックで一緒にやっていた尾花君も2006年12月に自分の歯科医院を開業してお互いで切磋琢磨し、勉強しながら自分たちの医院をどう良くしようかと話しながら希望に満ちた日々をおくっていました。

しかし、その後2011年1月と2012年4月立て続けに2つ別れがやってきました。2011年1月には親友の尾花君が、2012年4月には散々迷惑をかけた母が病気のため亡くなりました。
私にとって身近な人間がなくなるということが初めてだったので、しばらくは心の整理がつかない状態でした。
尾花くんとは一緒にさまざまな歯科の勉強会等にも通っていました。彼がいなくなってそこから3年ぐらい、私は勉強会に参加することもなく目の前の事だけをやっている、いわば時が止まっているような状況でした。
また母に関しては、やっと迷惑をかけた分少しずつ親孝行してゆっくり過ごしてもらえると思った矢先でしたのでショックは大きかったのです。

その2人のために自分がなにができるかを考えたときに、2人の想いと共に生きていこうと決意しました。
尾花君は志半ばで亡くなってしまいましたが、歯科医師という仕事が好きで、休みなんかいらないくらい仕事がしたいくらいの人でした。
母には「感謝される人間なってほしい」と言う言葉をずっと言われ続けてきました。

尾花君が大好きだった歯科医師の仕事を、母が願っていた感謝されるような人間を目指しやり続けていこうと決意しました。

私は自分自身の歯科医院「ユナイトみよし歯科」を通してスタッフや患者さん、医院に関わる業者さんなど全ての方に感謝をし、感謝されるような仕事をしたいと考えています。

そのために自分が学びを続ける、そして居心地の良い場所を作る。

「患者さんの笑顔や感謝が溢れる医院を作ろう」とみんなで力を合わせ、努力をするそんな医院を目指しています。
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